聖徳太子1400回忌

聖徳太子と親鸞聖人

・聖徳太子1400回忌

今年は聖徳太子の1400回忌にあたります

本願寺でも春に 聖徳太子1400回忌法要が行われました

聖徳太子は十七条憲法を作られ 第一条「和を以て貴しとなす」 第二条「篤く三宝を敬へ 三宝とは仏法僧なり」と深く仏教を敬い その教えを政治の理念としても取り入れられた方です

 

 

・聖徳太子と親鸞聖人

親鸞聖人は「皇太子聖徳奉讃」「大日本国粟散王聖徳太子奉讃」など聖徳太子の和讃を200首近くもお書きになり 大変にお敬いされました

「皇太子聖徳奉讃」には

 

救世観音大菩薩

聖徳皇と示現して

多々のごとくすてずして

阿摩のごとくにそいたまふ

(観音菩薩は聖徳太子として現れ 父のように私を捨てず 母のように私に寄り添ってくださいます)

 

和国の教主聖徳皇

広大恩徳謝しがたし

一心に帰命したてまつり

奉讃不退ならしめよ

(日本の教主(釈迦如来)聖徳太子の広大な恩徳は感謝し尽くすことができません 一心に仏に帰依し 怠ることなくほめ讃えましょう)

 

と聖徳太子を観音菩薩の化身や日本の釈迦如来と見ていたことがうかがえます

また親鸞聖人が参籠された六角堂を建立されたのも聖徳太子であり

法然聖人の念仏のみ教えへ帰依されようとした機縁となったのも六角堂にて聖徳太子の示現があったためです

 

 

・善光寺と聖徳太子

 善光寺のご本尊の阿弥陀如来像は 欽明天皇13(552)年に百済の聖明王より経典と共におくられたものと言い伝えられています

日本に仏教が正式に伝えられたわけですが 崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の対立の中で この阿弥陀如来像は物部氏の手により難波の浦に捨てられてしまいます(聖徳太子は蘇我氏とともに物部氏と戦っています)

後の推古天皇(摂政 聖徳太子)の時代に本田善光が引き上げ伽藍を築き善光寺を建立しました 

 

のちに聖徳太子の父親 用明天皇が崩御されたおり 聖徳太子は七万回「南無阿弥陀仏」とお念仏を申しましたが

父親が心配になった聖徳太子は 小野妹子に善光寺の阿弥陀如来あての手紙を託しました

善光寺の阿弥陀如来からは「大丈夫ですよ」という意味合いの手紙が返ってきたそうです

 

鎌倉時代 善光寺の勧進聖らはこの聖徳太子の お話をして募財を集めたそうで

親鸞聖人も関東伝道の際には この勧進聖たちと共に行動し

お念仏のみ教えを広められたといわれています 




コメントをお書きください

コメント: 1
  • #1

    中村宏述 (水曜日, 13 10月 2021 15:31)

    お世話様です。
    わたしも一度、善行寺の真っ暗なお堂を見学したことがありますが聖徳太子のお話は記憶に残っては
    いませんでした。
    幸い、日本歴史展全12巻をもっていますのでお話の確認が楽しみの一つになっています。
    ありがとうございました。
                              なまんだぶ なまんだぶ