金光山真福寺の由来

浄土真宗本願寺派 無量寺

真福寺の仏教婦人会創立百周年記念誌 「お念仏に誘われて」 を頂きましたので、 里の真福寺をご紹介いたします。

このブログに何度も登場する、金山佛乘のお寺です。




その記念誌に、お寺の由来を載せてありました。


金光山真福寺の由来

 

 

 浄土真宗本願寺派金光山真福寺は、寺伝によると往古は真言宗で寿福寺と称し、今の所より北方に在りました。浄土真宗に改宗した時期は定かではないが「風土注進案」に本願寺別当職第十二代宗主准如上人から阿弥陀如来の尊影を頂き、法名を了順(初代)と賜ったとあります。改宗に際し寺号も寿命寺と改めました。

 しかし、廃仏毀釈の動乱期に平生町馬島に引寺され無寺となりました。そこで、十世住職金山仏乗は、萩の真福寺を寿命寺跡に引寺 十一世住職蒙恩、念仏往生を願求する人々と手をたずさえて、報恩の誠を結集して現在地に移転再建し現在にいたっています。

 移転再建にあたっては、現在地、光市中央六丁目3-11(光井金山)に寺屋敷を決定 (明治33年)本堂の建材は、大島の外人(とのにゅう)浄念寺より筏に組み、2隻の船で運搬したといいます。明治35年には、本堂の骨組みを完成しました。門信徒よりの寄附も完了し、明治36年には、内陣等一切落成できました。

 旧浄念寺の解体材で、真福寺が建立できたのは、明治維新期の傑出した勤皇僧、大洲鉄然師と十世仏乗住職との親交によるものだと思われます。

 仏乗住職は、維新後、防長国内の宗門改革に奔走、その後、西本願寺に入り、内事局長 財務局長となり、第21代宗主明如(大谷光尊)を補佐して、宗務に専念されました。

 真福寺仏教婦人会の創立が、明治37年11月と早いのは、仏乗住職によって、本願寺との結びつきが、深かったからと推察されま す。       

 (真福寺由来より抜すい)

浄土真宗本願寺派 無量寺

 

 

ただ、私にとっての佛乘と云う人は、

あの大洲鉄然さんのような、ちょっっと変わったお坊さんで、笹を画かせたら天下一品といったような、やはりちょっと魅力的な、不思議な存在だったのです。

 

調べても解らないのかも知れませんが、

「群馬開教の第一声」と聞かされれば、やっぱり調べてみたくなります。